ひとりひとりの物語が紡いだ、花井組の歴史

花井組創設の記憶

花井組創業者 花井郁次、2代目 花井勝美代表と秋子夫人

 昭和8年(1933年)、花井組は大府町(現大府市)で土木請負業として花井郁次によって創業。郁次はそれまで農業を営む傍ら、近隣から頼まれて多くの土木工事を手掛けていました。当時の大府町は田畑が広がる丘陵の農業地帯でしたが、知多半島は利水が整っておらず多くの溜池が点在していました。知多半島の土壌は保水力に乏しく雨が降っても充分な用水の確保には到らず、一方河川の氾濫など水害に見舞われることもありました。農業用水や飲料水の確保、水害対策は、この地域にとって大きな課題であり、郁次が土木を本業としたのはそんな背景からでした。

 創業当時の昭和初期は激動の時代であり、第二次世界大戦ではこの地域からも多くの人が戦地に赴きました。郁次の長男・勝美も国の役に立ちたいという思いと、家族を守るため長男でありながら海軍に志願します。一方、郁次は物資も人手も不足する中で、細々ながら土木の仕事を続けていました。

 終戦後、勝美は海軍から帰還しますが、敗戦の痛手と世の中の価値観の急激な変化により喪失感に見舞われ、暫くは気力が起きませんでした。しかし、勝美の根幹にある「国のため、地元のため、郷土の人々の暮らしのため」という思いは変わることなく、土木の仕事を通じて地域に貢献することを決意、地元の若者たちと活動を開始しました。終戦から4年後の昭和24年(1949年)、花井組は愛知県知事登録の建設業(土木)に登録、地域の復興に尽力、昭和33年(1958年)には組織変更を果し技術集団・株式会社花井組としてスタートします。


昭和25年当時の大府市大東町の工事風景
昭和29年当時の大府市半月町
昭和29年当時の大府市北崎町7丁目 皆瀬川 夫婦橋

未曾有の大災害、伊勢湾台風

表彰状

 昭和34年(1959年)9月26日、日本列島は伊勢湾台風によって大きな被害に見舞われました。その日花井組は、愛知県から請け負っていた現東海市の伊勢湾に面した工事現場(川南新田の水路の護岸工事現場)で、災害に備えて現場の状況を見守り待機していました。真夜中になって水が押し寄せてきた時、辺り一面は停電により暗闇に包まれました。そんな中勝美らは、使用していたオート三輪者のヘッドライトの灯りを頼りに避難してきた住民を助けて荷台へ乗せ、エンジンの止まった車を押し進めました。その後もライトで周辺を照らし、逃げ遅れて水面に浸かった住民をロープで救出するなど、救助活動を続けました。 後日、救助された人たちの知らせを受けた横須賀町(現東海市)からは感謝状が授与され、助けられたという人からお礼の手紙が届けられています。「災害時、最初に駆けつけるのは地元の建設業者。日頃から何をすべきか地域と一緒に考えたい」と勝美は新聞掲載時(中日新聞2009,9,25夕刊)に述懐しています。未曾有の被害を出した伊勢湾台風の翌日からは、資材をかき集めて堤防の決壊場所を塞ぐ工事に入り、社員全員が一丸となり、使命感を持って復旧作業に当たりました。

昭和35年頃の東海市大田町 川南新田
昭和30年当時の東海市太田町 川南新田での当時の社員たち

地域を豊かにした、愛知用水の一大事業

 防災事業と同様に、治水・利水は地域にとって必要不可欠なもの。水なくして産業は育ちません。昭和22年(1947年)の渇水時には、知多半島では溜池が枯渇して大きな被害をもたらしました。「知多の豊年米食わず」とはそんな知多半島の状況を表したことわざです。

昭和35年頃 当時の知多郡上野町から見た横須賀開水路
昭和35年頃 当時の横須賀町の田畑に抜いた開水路

 このような背景によって行われたのが日本最初の国土総合開発事業である愛知用水の一大事業でした。伊勢湾台風の復旧に邁進するさなか、花井組はこの国家事業の一翼を担いました。 昭和32年(1957年)に工事開始、紆余曲折を経て昭和36年(1961年)に通水を開始します。木曽川からの水資源は水道用水、農業用水、工業用水、ダムによる発電出力増強など多岐にわたりに活用され、特に知多半島の農業は画期的な営農展開を果しました。愛知用水は、流域の産業を支える重要な基盤となり、住民生活は豊かで文化的なものへと変貌していきました。

自然と人間の英知を融和させる仕事

祠の再生をした神明社

 昭和33年(1958年)に勝美の長男として生まれた宏基(現社長)は、幼い頃から土木の現場が身近な環境で育ち、親の背中を見ながら土木建設の道に進みます。花井組に入社し現場監督をしている中で、とある依頼がありました。「龍神を祀る祠の撤去と再生」です。祟りを恐れて誰も手を出せずにいましたが宏基は着手し、誰かがやらねばならないなら…と真摯に向き合いました。以前の祠より立派なものを造り、今も大切に護っています。人が嫌だと思うことをやる─するといつか自分の糧になっている…その信念の背景には幼い頃から見続けた母・秋子の生き方があったようです。

「人間は土や水、目に見えない自然の法則の中で生かされています。我々はそこに手をつけ工作する仕事であり、自然と人間の英知を融和させる仕事だと思っています。宗教とはまったく観点が違いますが、自然に対する畏敬の念は常に持つべきだと感じます。(宏基)」

 日々の仕事で何が大切かを社員と考え共有し、土木・建築という仕事と向き合っています。

花井組の神髄

 仕事を通じて人の役に立ちたい、地域の守り手になりたい…それゆえに創業から一貫して、大府市とその近隣地域で活動しています。あるベテラン社員が語った「自分たちが造ったものが地域のインフラとしてどのように役に立ち、発展に関わり、また地域の生活を支えていくのかを見届けたい。何かあれば駆けつけて自分たちの力で何とかしたい。」という言葉のように、手がけたものを見守り続け、愛着や誇りを持って地域のために仕事をする、それが技術者集団・花井組の神髄です。

昭和41年6月 大府市中央町(大府跨線)での花井 郁次氏
昭和45年当時の石ヶ瀬跨線橋 大府市朝日町