90th Anniversary

花井組ISM

Hanai's Ism
地域とともに、地域の幸せにとって必要なものを。

地域の方に支えられ、地域とともに歩んだ90年。より豊かな地域づくりに貢献したい、そんな思いで時代時代に求められる様々なものづくりに携わってまいりました。これからの時代、どうすれば更なる豊かな暮らしを創造し、価値あるものを残していけるか。地域の幸せにとって必要なことは何かを問い続け、担い手として課題解決に貢献できる、地域にとってなくてはならない企業であり続けます。

自然と共存できる、という信念。

土木・建築という仕事は、人と自然とが共存するための知恵だと私たちは考えています。山を切り拓く。道をつくる。川幅を広げる。そこには自然に対する畏敬の念があり、ともに生きるという信念、土木の語源でもある「築土構木」の思想があります。それは、破壊とは全く異なり、自然に抗うことではありません。90年という歴史のなかで、目には見えない、人には制御できない自然の力があるということも肌で感じてまいりました。技術力だけではなく、その感覚をも身につけ、向き合える人が花井組の考えるプロフェッショナル。そんな技術者を育てることが地域のためになっていくと信じています。

まち医者のごとく、地域の守り手であれ。

私たちの仕事は、決して目立つものばかりではありません。手がけたものが人目から隠れてしまうことも多いからです。しかし、地中に埋まる上下水道やガス管などが毛細血管のように地域に張り巡らされ、地域の方の「あたりまえ」を支えています。技術者としてそこに誇りを持ち、見えないものにこそ誠意をもって仕事をする。それが花井組のものづくりです。危険箇所には改善提案や処置を行い、何かあればすぐに駆けつけ最前線で守り、壊れたものは早期復旧する、これらすべてが私たち地域の建設会社の役割です。それはまさにまち医者のごとく、地域のインフラを守っています。

インフラをつくることは、地域の未来をつくること。

公共工事はときに税金の無駄づかいだと言われます。でも、はたして本当にそうでしょうか。私たちはそうは思いません。インフラを整備することは、未来への投資だと考えます。インフラは地域の土台として必ずそこに残り、街を支え続けていきます。だからこそ、そのあり方をしっかりと地域の方と考えることが大切です。せっかくつくるのだから、安心安全はもちろん、自然環境を守り、経済産業活動を活性化し、健康や福祉、教育、子育てなどのまちづくりにも寄与する社会基盤をつくりたい…そんな思いのこもった責任ある仕事が、こどもや孫の世代にまで、地域を支え守る大切な資産を築いていくと信じています。地域にとって必要なインフラをつくることは、地域の未来をつくることでもあると確信しています。

90年の歴史を多くの方と共に歩んできた花井組。
みなさんからいただいた花井組との思い出、
引き継がれる花井組イズムをご紹介します。

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花井勝美元会長「映画に」出演

当社のホームページにも掲載されている伊勢湾台風の際の人命救助による表彰を受けた情報を、映画会社に提供したものが映画化。(それぞれの伊勢湾台風_2014年製作)
たまたま、この映画のカメラマンが私の弟だった。
*1959年9月26日紀伊半島から東海地方を中心に甚大な被害をもたらした台風当時の体験者に取材し、埋もれた証言を掘り起こし記録したドキュメンタリー映画

社員旅行

2000年、福岡・長崎に社員旅行で行ったハウステンボスでの集合写真。この時はみんな若いね(笑)
これからも元気溢れる会社が続くことを願って!

助けてくれた人

2016年の年の瀬の話です。共和駅のロータリー横で某店舗の新築工事を突貫工事で施工していました。12月30日、杭工事中に水道管をひっかけてしまいました。なじみの水道業者に連絡しても年末ということもあり連絡がつきません。途方に暮れながら市役所に連絡したところ、駆け付けてくれたのが「花井組」さんでした。青いヘルメットをかぶったその人は状況を確認したらすぐに手掘りで大穴を掘り、極寒の中素手を水の中に突っ込み、水をかぶりながらあっという間に直していただきました。そして、市役所から請求が行きます、とだけ言って帰っていきました。 時がたち、縁あって花井組に入社しました。当時、助けていただいた方の風貌は何となく覚えていたのでお礼を伝えようと思っているのですがまだお会いできていません。

昔の花井組の倉庫 (1969年)  大府小学校5年3組 H.H作

普段の生活の中に、土木が当たり前にあった幼少期。資材や道具が置いてある倉庫は、色んな想像力を掻き立てられる、秘密基地の様でした。
今でもこの絵は社長室に飾ってあり、心の風景として残っています。童心忘るべからず!

見守る松

60年以上前から本社前に植わる松。
「時代が変わっても、変えない忘れない大切なこと」ハナイグミイズムの象徴として、誰よりも長く、花井組を見守ってくれています。

温故知新

故きを温ねて新しきを知る。2021年の本社前庭の改修工事。勝美会長が大切にしてきた梅や松などの昔の風景は残しながら、地域に開いた新たな顔をつくりたい。
そんな思いで図面を描き、花井組の監督さんや作業員さん、協力会社とともに作りあげた共同作品。その過程では、ものづくりへのこだわりや仕事に向き合う姿勢など、様々なことを学ばせて頂きました。

現場で図面を広げるな(初代花井郁次社長)

品質にこだわるため雨が一粒でも降ると、現場を切り上げる。
つくったものの品質が気に食わないと、お客さんがOKを出していても壊して作り直す。
新しい現場が始まる前は、家に一週間引きこもり、図面の数字をすべて暗記。社員が現場で図面を広げていると、頭に入れてから現場に入れとひどく叱られた。
創業者・初代社長花井郁次さん(写真右)は、現場に命を懸けた方でした。

横根平子研修 初めての丁張

この写真は同期のS君です。 先輩の指導のもと、初めての現場で色々なことを学び、丁張を作成しました! 大学の授業では、丁張の経験のない僕たちだったので、丁張の通りが通って完成した時、嬉しくて撮った1枚です。

初めての構造物

花井組に入社して、 始めから竣工まで携わった現場です。 何も無いところから大きな構造物ができるのは感動しました。

舗装工との出会い

20歳で花井組に入社して舗装班に配属され、上司や先輩に舗装工を学びました。その時に初めて見たのが1人の先輩が乗っていた自社のモーターグレーダーでした。素直に「かっこいいな」と思いました。もちろん先輩に教えて頂きました。自分で乗るようになり、舗装工の土台である路盤工をモーターグレーダーで造るのにハマりました。モーターグレーダーは自分の性格にぴったりの重機でした。技術はもちろんですが、その日の気持ち・やる気・勢いが全て跳ね返り、答えを出してくれる重機でした。路盤工の仕上げで綺麗に仕上がった際は1人でニタニタと喜んでいました。逆に失敗した際には、本当に落ち込んだことが何度もありました。今現在まで舗装工を長くやってこれたのは、モーターグレーダーを乗りこなしてきた自信からだと思います。会社がモーターグレーダーを売却すると決めた時は本当に寂しかったですね。

社宅

花井組に転職するにあたり、社宅(ハーベストムーン)に引っ越してきました。
建物もまだ新しくて中も広く、5歳の双子が毎日走り回って遊んでいます。
家族みんなとても満足しています。

先輩たちと直営作業員

入社した頃は、若くて、みんな元気いっぱい!
(声が大きい人、ハンマーや掛矢で叩く人、スコップで刺す人、物を投げてくる人etc…) 
1年目から諸先輩方に可愛がってもらい、なんやかんやで約20年。最後には「まあ~しゃあない」で助けてくれる良い人達。

ご迷惑をおかけした…

お酒を飲みすぎて、元会長のご自宅前及び会社玄関近くで戻してしまったり、会社内で寝ていたりしたが、元会長には「ごくろうさま」と、元会長奥様には毛布をかけてもらいました。また、飲みすぎて出社した際にも元会長奥様から「それこそ花井組!」と声をかけてもらいました。
現在当時の場所は、駐車場として綺麗に改修されてしまい、少し寂しく思います。

結婚式

社長・常務・先輩方に御出席頂きました。
お酒が得意でない人も顔を赤くして飲んで祝ってもらいました。
当時は本当に忙しく、前日も5時まで仕事をさせてもらい、新婚旅行から帰ったら、机の上に3工事分の図面が置いてありました。

入社1年目

初心を忘れずに25年やってこれました。

366号バイバス工事

平成20年~平成23年にかけて、大府市大東町にて366号バイパス道路の新設工事を担当させてもらった。
橋梁下部工、補強土壁工、交差点築造などいろいろな工種に携わり、大変なこともたくさんありましたが、完成し、開通式を迎えた時は感無量でした。

予期せぬお小遣い

私が家族で大府アピタへ買い物に行った時のことです。
アピタ内の喫茶に入ったら元会長奥さん(秋子さん)と娘さんたちが先におられました。気付いた私と妻は挨拶をさせていただきました。すると、まだ2歳程の息子に小遣いを頂いてしまいました、5千円も。本当にありがとうございました。

怖い社長の優しい人柄

私は平成元年4月に入社し現在34年目も無事に勤務出来ております。入社した当時は元会長(勝美氏)が社長を務められており出稼ぎの作業員の方も大勢おられ、今よりも賑やかな会社でした。その社長の存在は非常に大きく、現場にいるときも昼の少し前と4時半頃は緊張する時間帯でした。なぜかというと…その時間帯はよく社長が現場に来られる時間帯だったからです。
5分前に片づけを始めたらアウトです。片づけは5時を過ぎてからが社長のルールでした。また、「花井組には昼以外の休憩はない」とよくおっしゃられておりました。平成4年の区画整理の調整池工事を行っていた夏の暑い日、10時休憩のときに堀山の日陰で冷えたスイカを買ってきて食べているときでした、誰かの一声「社長が来たぞー!」で皆が手に持っていた食べかけのスイカを投げ捨て作業を始めたのです、そのくらい怖かったです。平成4年の区画整理の調整池工事の現場の出来事でした。そんな怖かった社長、入社数日後になんと自宅まで両親への挨拶に来てくださいました。両親も大変驚いていました。すごく面倒見がよかったのは皆さんご存じかと思います。

賞与

20年程前に臨時で驚くほどの賞与をいただいた。
とても嬉しく、モチベーションが上がりました。

一期一会

区画整理現場の隣の農道で、ドラマ(キッズウォー)の撮影をしていた。下請けさんと一緒に井上真央さんと記念撮影を撮った。ここで出会えたのも花井組のこの現場で仕事をしていたからだと思うと感慨深い。

初タイトル

一級土木施工管理技士の資格を取得し5年が経ち任せてもらえた大きな現場。
なんとか現場を完了させた結果、初めての愛知県優良工事表彰を受賞。
あれから10年、二度目の受賞という目標はまだ達成できずにいますが、諦めずに日々頑張っていこうと思っています。

セントレア前島緩傾斜護岸

花井組入社前、出向という形で当時Hさん、S君と同じ現場で仕事をしていた。
まさか花井組にお世話になるとは夢にも思わなかったが、今は一員としてなんとかやっています。

元会長との思い出

入社して間もなく、Nさんの大府跨線橋耐震補強現場に行ったとき、自転車で現場内に入ってくるおじいさんがいました。
現場のことを事細かく聞いてくるので、「今日来たばかりなので代理人に聞いてきます。」と答えると「監督が現場の内容を理解していないとは何事だ!」と激怒されました。
その時、初めて私はその方が会長であると気付いたのです。

学生時代の初訪問

学生時代の就職活動で花井組を初訪問、3週間の社会人研修の際にも通勤に使用していた当時の愛車です。

ここが公園に!

ここに大きな公園(あいち健康の森)ができるんだと感じた2年目の春。

東部知多最終処分場について

2年余りに渡る大きなプロジェクトに携わることができ、また企業体に初めて出向することでたくさん勉強することができて非常に思い出深い現場です。
竣工をむかえた時にはグッとくるものがあった。

龍神を祀る祠の移設と再生(大府市若草町)

県道名古屋碧南線の拡幅工事の際、接道する神明社及び石ヶ瀬川合戦之地・向山新池青木塚の移設・再生に社長と一緒に携わらせて頂きました。
「土木・建築の仕事に向き合う中で自然や地域の歴史に対する畏敬の念を忘れてはいけない」
「手がけたものを見守り続け、愛着や誇りを持って地域のために仕事をする」
と社長がいつも社員へ伝えるメッセージは、ここの現場での経験に由るものだそうです。
花井組本社からは最寄りの氏神様ということもあり、会社として日頃から清掃活動や参拝をさせて頂いております。
今後も地域の文化や歴史を残し、伝えていくため、大切にしてまいります。

家族

花井組に入社(昭和63年4月)して34年5か月になります。
入社して2年目で結婚し、今では息子3人、嫁2人、孫3人の計10人家族です。今後何人増えるか予想はつきませんが、大家族になることが楽しみです。

年月が経っても嬉しいことがある

15年前くらいに奥池の工事で樹木を植えたのですが、最初は弱々しい桜の木も10年以上経つと結構育っていて、しっかりと根付いてたくましい姿をみたらなんだかうれしい気持ちになったりして、やりがいのある仕事だと思いました。

入社して驚いたこと

第2、いや第3の人生生活を縁があり花井組でお世話になって早4年目となりました。施工畑も今年で46年目となります。過ぎた日々の中で複数の会社にもお世話になりました。
そんな経験をした私が驚いた花井組の特徴は私より先輩の方々が「生き生き」と働いておられる姿です。少子高齢化が叫ばれている時代に私も足手まといにならないように頑張ります。

入社のきっかけ

まだ私が大学生の頃、実家の土地に隣接した土地の造成工事を花井組が行っており、両親から工事の話や監督さんの話をよく聞いていました。所有している土地の駐車場整備を行ってもらったこともあり、そうした関わりがあったことが入社のきっかけになりました。

入居前の花井ビル

過去に多くの先輩が住んでいた花井ビル。 花井ビルに住んでいる話をすると様々な逸話を聞かされます。 住んでいた人が口をそろえていうのが、お風呂が狭い。リフォームしてきれいになった今でもお風呂は狭いままです。それを除けば、駅と会社が近く、買い物にも困らないかなりの好物件です。

初めての竣工現場(一般国道155号)

花井組に入ってすぐにこの現場が始まりました。 土木工事の経験が全くなかったので現場で起こることは初めてのことばかりで苦労したことを覚えています。竣工後に訪れて一般の車両が通行をしているところを見て、自分の仕事が誰かの役に立っていることを実感し、改めてこの仕事のやりがいを感じました。

おおぶ文化交流の杜でコンサート

花井組が建設に関わったおおぶ文化交流の杜で所属している吹奏楽のコンサートを行いました。 コロナウイルス感染症の影響がある中、無事に開催できたこと、たくさんのお客様に来ていただいたこと大変嬉しかったです。

第43回JC青年の船「とうかい号」

第43回JC青年の船「とうかい号」に参加した時の写真です。 一週間船での生活。 朝から夜までビッシリなスケジュールの研修は大変でしたが、いろんな方たちと出会い、そして交流ができ、私にとって非常に貴重な経験になりました。

大府を眺めてきた看板

2019年4月に役目を終えた屋上看板。
今までありがとうという気持ちを込めて撤去しました。

初めての一人暮らし

初めての一人暮らしで、新築のとても良い部屋に住ませてもらってます。好きな物を食べて飲んで自由に生活しています。

地元育ちならでは

我が子が通う小学校は花井組が造成工事した場所。自分の暮らしに関わる事を自分の会社がやる事はとても嬉しいことです。

大府の発展

入社20年の間に区画整理4件(深廻間、羽根山、一ツ屋、共和西)に営業として関わりました。元々大府市在住で、区画整理前を知っているので、大府も良くなったなあと本当に思い、そこに関わりを持てたのは、花井組に入社出来たからと感謝してます。 今2件の区画整理(横根平子、北山)が進行中なので、完成まで関わって良くなった大府を見ていけたらと思います。

住んでいる街で初めての工事

花井組に入社して3年目で思い出はまだ多くないですがこれから沢山の思い出を作っていきます。この写真は、子供を連れてよく遊びに行った健康の森での修繕工事の一コマです。

仮設道路

花井組に入って初めての舗装。分からないことだらけ、怒られたり、教えてもらったりしながら、なんとか完成した道路。仮設なのに綺麗だと褒められ、頑張った甲斐がありました。

プロ野球選手から土木技術者へ、思い出の詰まった横根排水機場

私は地元の中学校、名古屋の高校の野球部を経て、サンケイアトムズ(現東京ヤクルトスワローズ)にピッチャーとして入団しました。しかしプロの世界は厳しく、思うような結果は残せませんでした。2年目に王さん長嶋さんと対戦した試合が1軍での最終登板となり、そのシーズンで引退することになりました。
引退後はすぐに故郷の大府に帰りましたが、野球一筋だった自分は、次にどこで活躍できるか、何をすべきか悩んでいました。そんな時、花井組の創業者である花井郁次さんに声をかけていただき、入社することを決意しました。
土木の世界は全くの素人だったので専門学校に通い、最初は先輩に教えてもらいながら必死に勉強しました。当時の勝美社長に叱咤激励されながら仕事に励み、40代で一級土木施工管理技士の資格を取得することができました。自分が担当した現場が、県から優良工事として表彰された時は本当に嬉しかったです。
定年を迎えたとき、当時の勝美会長からもう少し一緒に頑張ろうと声掛けしていただき、2度大きな病気をした時も働きながら一緒に病気を克服していこうと励まされ、乗り越えることができました。
この会社は本当に温かく、アットホームな雰囲気があります。それが、働き続ける一番の理由です。この仕事が本当に楽しく、天職だと思っています。今後もこの会社や仕事の魅力を、若手社員や新入社員に伝えていきたいです。

『熟慮 果断』

『 熟慮 果断 』
花井組に受け継がれる、仕事と向き合う精神です。
物事を決める際、決断の時までは色々な事を考えに入れながら十分に検討を重ね、時がきたら思い切って断行する。
花井組創設者、花井勝美・秋子から現社長に継がれた花井組の社訓です。

改修前の本社事務所

色んな思い出がたくさん詰まった、本社事務所。改修前、最後の写真です。
喜んだり、笑ったり、叱られたり、謝ったり、夜食を食べたり…
本当にありがとうございました。

改修後の本社事務所

生まれ変わった本社事務所。
建物の外観や構造はそのまま活かし、内部をフルリノベーションしました。
ここは、来客用の打合せコーナーです。
明るく風通しの良い空間に生まれ変わりました。
皆様のご来社を社員一同、お待ちしております。

富士山

45年ほど前の花井組の慰安旅行。
バスの車窓から何気に撮った一枚の富士山の写真に惹きつけられ、以来、毎月欠かさず富士山を追いかけてる。
週末、仕事を終えて富士山に会いに走った、花井組時代が懐かしい。
個展を開くほどの生涯の趣味となったのも会社・家族があってこそ。
継続は力なり。

人生を変えた出会いとクレーンオペレーターの仕事

秋田の山奥の山村で生まれ育ち、家の手伝いで学校に行けなかったため、中学を卒業しても文字も読めず就ける職場もありませんでした。
そんな中、人生を変えたのが、当時秋田に訪れていた元会長夫妻との出会いでした。私を受け入れていただき、大府に移住。
社会人として、花井組の社員として、クレーンのオペレーターとして、一人前に育てて頂きました。
花井勝美元会長、妻秋子さんは、私にとっての第二の親父さんであり、お袋さんでした。

幼少期の思い出

土建屋の息子として育った幼少期。
花井組が会社として設立されて間もない頃、両親は毎日仕事で忙しく、家族団欒の時間はほとんどありませんでした。特に母(秋子)が昼ごはんに生卵一つ飲み込んで、すぐ仕事に戻っていた光景は今でも忘れません。
当時、秋田や九州からの出稼ぎの方が大勢おり、自宅の横に寮がありました。その方たちも含め「家族」という感じでした。
昼間は現場で勝美社長に叱られしょんぼり。夜になると酔っ払いに変貌し、宥めたり世話をする両親。そんな光景が毎日繰り広げられ、幼少期の私には正直辛かったです。
そんな中、遊び相手をしてくれたのは2人の姉や事務所のお姉さんでした。私にとって育ての親のような存在であり、今でも感謝しています。